人肉

カニバリズム

 カニバリズムは、カニバル(食人者)とイズムが結びついた語である。カニバルの語源は、コロンブスの報告にあった人を食うカリブ族の「カリブ」である。スペイン人の発音で「カリブ」が「カニブ」になり、「カニバル」という言葉が生まれた。


カニバリズムの動機

[1]食通的食人

 人肉がうまいから食うという動機である。

[2]儀式的・呪術的食人

 死者の霊力や性格などを吸収したり、死者と一体化したりするため、死んだ近親やいけにえ、敵の首長や勇者を殺して食うという動機である。

[3]生き残るための食人

 食料不足などの危機的状況のもとで通常は禁じられている人肉を食うというものである。

 

 それぞれを細かく見ていこう。ただし、文献によるカニバリズムの話はあくまで「話」であって、事実とは限らないという点である。

 

◎食通的食人

・「易牙爲レ君主レ味。君之所レ未二嘗食一。唯人肉耳。易牙蒸二其首子一而進レ之。君所レ知也」(『韓非子』の十過篇)

 君主(=桓公)の料理長が、美食家である君主に我が子(=長男)を蒸して食卓に出したという話である。つまり、桓公は食通的食人の分類に入る。

・中国の元代の学者である陶宗儀【トウソウギ】のエッセイ集『輟耕録』【テツコウロク】には、「想肉」という項があり、次のように書いてある。

「小児を以て上となし、婦女これに次ぎ、男子またはこれに次ぐ」

 その後、人肉料理法が記述されてあり、さらに古来の栄光ある人肉嗜食者を列挙している。

・宋代の荘綽【ソウシャク】の「鶏肋【ケイロク】編」によれば、子供の肉は「和食爛」(骨ごとよく煮える)、女の肉は「不羨羊」(羊よりうまい)、男の肉は「饒把火」(たいまつよりはマシ)、人肉一般は「両脚羊」(二本足の羊)とそれぞれ隠語で呼んでいる。

 こういった点から、かつての中国人にはカニバリズムを罪悪またはタブーとみなしてはいなかったんではないかと思われる。他の中国の本でも人肉を「食糧」としてではなく、「料理」の一形態として登場しているのである(『カニバリズム論』)。

・ペローが書いた1689年の『眠れる森の美女』には、姫と結ばれた王子の継母が、姫と王子の間に生まれた2人の子供の肉を食べようとする話がある。

・幼女連続誘拐殺人事件の犯人宮崎勤は、祖父の遺体を焼いた際に、その遺骨の一部を自宅の部屋へ持ち帰って食べている。その動機というのは、ビデオは心にしか残らないが、骨を食べれば心と体に残り、自分が一番祖父をかわいがることができたためというものであった。

 また、彼は幼女の遺体を祖父の遺体と同じように焼いてやろうと考え、これを焼いて、その際また遺骨の一部を食べている。その動機は祖父のときと同じであったという。

上田秋成の『雨月物語』には、愛した稚児が死んだとき、いとしさのあまり喰ってしまった僧侶の話が出てくる。

アメリカで1973年に逮捕されたエドマンド・エミール・ケンパーは、1972年と1973年の2年間に母親を含めて8人の女性を殺している(母親以外は15〜23歳までの女性)が、そのうち2人を食べている。食べた理由を尋ねられると、「私の体の一部になって欲しかったからです。そして今そうなっています」と答えた。

佐川一政は留学先のパリでガールフレンドの彼女を部屋で撃ち殺し、死体を切り刻んで肉を料理して食べた。死体を切断する過程は写真に撮り、2人で過ごした最後のときをテープに録音した。

 これについてブライアン・マリナーの『カニバリズム』では、愛情を注ぐ対象を何もかも自分のものにしたいという欲望のもっとも極端の例であると書いてあるが、佐川一政自身が次のように反論している。

「他人はよく僕の事件を「愛の究極の果てに」なんていうけれど、とんでもない。愛があれば決して僕は被害者の女性を食べてはいない!あれは単なる性欲の延長線上にあるものなのだ」

 

◎儀式的・呪術的食人

・1836年11月22日に、若い宣教師が「人喰い人種のフィジー人のためにキリスト教徒の同情を求める」と題する嘆願書をイングランドに送っている。その文章は次のように語られている。

「(中略)…人を食べる饗宴【キョウエン】は以下のように行われます。あらかじめ人が殺され、様式にしたがって料理されます。あらゆる階級、年齢、性別の部族が集まります。酋長も普通の人も女も男も子供たちもが恐るべき歓喜に浮かれて宴会を待つのです。まさに饗宴です。給仕たちが、輪になって座った人々の間に焼き人肉を持ってきます。一回の宴会に食べられてしまう人の数は1人2人、10人でなく、20、30、40、50人なのです!信頼できる筋からの話によると、こういった宴会で200人がむさぼり喰われたこともあったそうです。本嘆願書を書いてる私自身、一回の宴会で4、50人が食べられてしまうのを目撃した人たちから話を聞いたこともあります。なんら嫌悪感を伴うこともなく、実にうまそうに食べられてしまったのです!…」

 しかし、うまそうとここでは書かれているが、嫌悪感なしに食べていることがうまそうに食べているように見えただけであろう。

ポリネシア諸島を旅行したアルフレッド・セント・ジョンソンは、1883年に『人喰い人種の中の野営』という旅行回想録を出版している。その著書の中で、「フィジー人が肉を喰うのは、おそらく食用になる動物がいないため、この風習が生じたのであろう」と書いている。

 つまり、[3]の「生き残るための食人」の要素が強く、[1]のようにうまそうに食べているのではない。しかし、フィジー人の食人を[3]に簡単に分類することはできない。

・デビット・カーギル牧師はフィジー人の儀式について、『日記』に次のように書きとめている。

「儀式の中でも、人間の犠牲者をいけにえに捧げる様子はもっともいまわしく悪魔的である。こういった恐ろしい儀式の間に見せる人々の情熱は、悪魔のような残酷さによって焼きあがるようだ。犠牲者は遠く離れた地域の住人の中から選ばれるか、いけにえを捧げる人々とは関係ない他の部族との交渉で確保される。犠牲者はしばらくの間生かされ、太るように食物をふんだんに与えられる

 いけにえにするときは、犠牲者を正座させ、両手を前につかせる。それから四肢や関節を動かせないように縛る。この格好のまま犠牲者を熱した石の上(真っ赤に焼けている石もある)に載せ、上から葉や土を被せ、生きたまま焼いてしまう。焼きあがると、犠牲者をこのかまどから取り出すのだが、顔などが黒くペイントされているので、生きている人が宴会や戦いのために化粧したようでもある。それから神々の神殿に運び、神をなだめる犠牲者として供えられるのだ」

 このいけにえは神に捧げられた後、儀礼として共食される。その共食儀式が、上で述べた若い宣教師が見た饗宴であろう。

・BC7〜8世紀のマヤの古典期の人身供儀の場面を描いた絵が残っている。

 マヤではいけにえの心臓は神への捧げものになっている。

・1768年にニュージーランドに上陸したキャプテン・クックの日記には次のように書かれている。

「11月23日、北から穏やかな嵐が一日中吹いて、計画通り沖に向かおうとする我々を阻んだ。午後、数人の士官が原住民と楽しもうと上陸した。そこで、彼らは殺されたばかりの若者の首と臓物が砂浜に転がっているのを見た。心臓がフォークのようなもので、一番大きなカヌーの先端に突き立てられていた。士官のひとりが首を買い取って船に持ち帰った。船上では原住民のひとりが士官全員と乗組員の大半が見ている前で、人肉をあぶって食べてみせた」

 この食人はクックたちに見せるためであったが、一番大きなカヌーの先端に突き立てられた心臓は、マヤのいけにえの心臓と同じ意味を持っており、殺された若者は[2]のカニバリズムのいけにえといえる。

キャプテン・クックの太平洋航海に同行した画家ジョン・ウェッパーは18世紀のタヒチ島の人身供儀の場面を描いている。

・ジェームズ・ジョージ・フレイザーは『金枝篇』の第12章「神を喰うこと」で、アステカ人の儀式について言及している。

 その儀式では、人間にかたどった神の像を作る。それは子供の血を加えて練って生地で像を作り、骨はアカシアの木で作ったものである。この像を儀式に利用して、最後心臓の部分を切り取って王に差し出す。王はそれを食べる。像の残りの部分も小さくちぎられて、儀式に参加しているすべての男たちがもらって食べる。しかし、女はひとかけらたりとも口にすることはできない。この儀式はテオクアロと呼ばれ、それは「神を喰う」という意味である。男のみが「神を喰う」。それは強い戦士になるためである。こうした行為をフレイザーは肉食の共感呪術と呼んでいる。

・バーバラ・ウォーカーの『神話・伝承事典』には次の話が書いてある。

「最近までフランスの一部では、最後に収穫した小麦から精製した小麦粉をこねて人形を作り、その人形を村長が八つ裂きにし、裂かれた肉片は村人に与えられて食べられた」

 この話はまったくマヤの儀式と同じであろう。

・マヤやフランスでは人間が人形になっているが、タヒチでは豚、インドや中近東では牛や羊、山羊、鹿となっている。

・『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』によれば、三河国の風祭りに参加した人はいけにえの猪を食べている。

・『全讃史』によれば、讃岐国仲多度郡吉田村の九頭龍神社の祭りでは、参加者はいけにえの鹿を骨も残らず食べてしまう。

・山地のバスト族は、非常に強い敵を倒すと、すぐに心臓を切り取って食べてしまう。これは戦闘の時に彼が持っていた勇気と力が自分に与えられると思っているからである。

・1824年、アシャンティー族によってチャールス・マッカースィー卿が殺されたとき、彼の心臓は勇気を鼓舞しようと欲したアシャンティー族の酋長たちによって貪り食われてしまった。彼の肉は乾燥されて、同じ目的で下級士官たちにも分け与えられ、その骨は呪物として末永く保管されたという。

・スー・インディアンは、勇敢な敵の心臓を粉末にして、死者の勇気をわがものとすることを願って、その粉末を飲んだ。

・東南オーストラリアのテッドラ部族とスガリゴ部族の戦士たちは、死者の性質と勇気を獲得できると信じて、殺した敵の手と足を食べた。

・ニュー・サウス・ウェールズのカミラロイ族は、勇気を得るために、勇敢な人の心臓と肝臓を食べた。

・サラワクのダイヤ族は、自分の手を固くし自分の膝を強くするために、殺された人の手や膝の肉を食べた。

・中央セレベスの有名な首狩り部族であるト・ラキキ族は、自分が勇敢になるようにと、いけにえの血をすすり脳髄を食べる。

・フィリピン群島のイタロネ(イロンゴト)族は、勇気を得るために殺した敵の血を飲み、頭の後ろの一部分と内臓の一部分を食べる。

・フィリピンのほかの一部族イフガオ族は、殺した敵の脳髄を吸う。

ニューギニアのカイ族も力を得るために、敵の脳髄を食べた。

 

●人肉の味

中野美代子が「女の肉は羊よりうまい」と書いてある。

・これを読んだ佐川一政は、次のような書き出しから始まる手紙を、フランスのサンテ刑務所の独房で書いて、中野美代子に送っている。

「羊よりうまいか…僕は心の中で何度もその「味」を空想しました。羊、羊、羊…そしてある日、それを確かめるべく、僕は行動に移したのです」

 その手紙には次のように続いている。

「人肉を、あなたは羊の肉の味に似ているのではないかと想像しておられましたね。ある部分でそれは当たっています。口に入れたとき、それはカーッと燃えるように熱く感じました。でも、それも今となって単なる錯覚だったような気もします。あなたの言葉の端が僕の頭の隅に残っていて、そんな気にさせただけのことかもしれない。

 それでも、人肉への思いを熱くするあなたに応えるべく、僕はそのときの味を何とか伝えたいと思って筆をとったのです。いずれにせよ、それは強いにおいも味もなかったように思います。牛肉に一番近かったように感じますが、いわゆる肉の味はそんなになかったです。あんまりあっけなく喉もとを過ぎてしまったので、僕は心の中で思わずアッと叫んだほどでした」

・ブライアン・マリナーは『カニバリズム』には、ロンドンに来たニュージーランドの人喰いのマオリ族が語った話が載っている。それによれば、人肉は豚肉とたいへん似通っているようである。マオリ族の中には50歳ぐらいの男の肉を好むものもいるが、一般的には子供や女性の肉が一番おいしく、白人より黒人の方が美味とのこと。

佐川一政は『中野美代子さんへの手紙』の「フェティシズムとしてのカニバリズム」にこう書いてある。

「人肉はさほどうまくないのである!ぼくはうまい、うまいといって食べたけれど、事実は、まずい!!」

 つまり、人肉がうまいというのはあくまで話であり、事実ではない可能性もあるわけである。